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そろそろこのご当地でも、夏の前に訪のう鬱陶しい長雨、梅雨の到来が囁かれる頃合いとなったものの。それを率いる大きな雨雲は、まだまだ威勢を十分には溜めていないものか。この何日かは薄く曇ることはあっても本格的に降り出すことは少なくて。時折、湿気を含んだ涼しい風が吹いちゃあ、ああそうだね、まだ夏の格好をするのは早いかななんて、人々へ知らしめているくらい。今宵もどこかしんなりと湿った夜気が垂れ込める晩になったが、空には月が真ん丸なお顔を出していて、雨を含んだ雲なぞはどこにも見えない。ただまあ、その月の周囲へうっすらと笠が掛かっているようだから、明日辺りは下り坂、道もぬかるむような本降りの雨が降り始めるやもしれないと。そういうことへ勘のいい、年嵩の人々が口にしていたよという呑気な話し声が遠のくのを、内容はともかく、早く通り過ぎぬかと物陰から聞き耳立ててる顔触れがあり。ゆらゆら揺れる丸いちょうちんの影ごと すっかりと姿が見えなくなっての、声も遠のいたのを見計らい、顔を見合わせたどこかむさ苦しいお歴々。さらさら流れる堀の水音の上で うんうんと頷き合うと、そこからサッと立ってゆき。その辻の奥向き、長い塀の一角にあった、小さなくぐりの木戸をことことと小突いて合図を送れば、きいと小さな軋みを立てて開いたそこには、何やら木箱のようなものを肩の上へ抱えた何人もの人足風の男らと、それを率いているらしき、そちらはお武家風の袴姿が何人か。木戸を出来るだけ大きく開け放つと、そらそらと追い立てるように急かしつつ、人足らを外へと出させ、荷を次々に運び出しておいで。そんな人々の、無言のままの持ち出し作業の列の傍ら、外から戻った見張りだったらしき男らへ、そちら様も地味ながらも袴を履いた、壮年くらいの年頃のお武家が声をかけ、
「今の気配は何だったのだ。」
「なに、ただの通行人でした。」
さようかと、何とかほっとし、胸を撫で下ろしたように息をついた御仁だったが、
「武家屋敷へも侵入するような、不心得な輩がおる昨今だからの。」
かつての昔、この藩との交流があったとある領から訪のうた人々が、滞在中の宿坊として使っていた別邸なのだが。数十年ほど前に国元でお家騒動が勃発し、現今はそんな余裕もなくなったらしく。目まぐるしく当主が入れ替わり立ち替わりしたどさくさの中、この地への挨拶さえないほど疎遠となってどれほどか。表の大門も閉ざされて幾年かという、廃墟のような扱いのこの屋敷は、だが、昨年の暮れ辺りから、怪しい気配が出入りしており。夜な夜な煌々と明かりが灯される一角がありの、人の声が立ちのしているようだという声がこそこそ立ち上がり始めたその頃合いに、
―― どこから響くか、
おいてけという怪しい声が、通行人へと囁くようになり
そんな怪しい声の噂の恩恵か、この古びた屋敷周辺への人通りは、立春辺りからこっち、ほとんど無くなっていたものの。あまりに広まり過ぎたのか、そんなの単なる風評だろうと意に介さぬ者のみならず、好奇心の旺盛な若いのや、どこの誰やら怪しい輩が、ちらほらとこちらを伺う姿が見え始めているこの数日だとか。肝試しでもしているものか、はたまた賭けの対象にした上で、怪しい人声の正体を見極めんという命知らずが、一応は武家の所有地だというに無法にも侵入しようと隙を伺っているものか。
「まったく、この藩は相当に危機感というものがないと見える。」
一般の民草が武士の屋敷へ、遊び半分に忍び込もうとするとは。しかも、人の気配があるならば、お上のかかわりと察し、自ら遠ざかっての遠慮を図るものではあるまいかと。ともすれば憤慨気味に勇ましい言いようを並べる、頬の少ぉし垂れ気味な壮年だったが、
「まあまあ、トウエモン殿。」
先だっての侵入者にしても、さんざ切りつけて追い払いましたし、あれ以降はぴたりとこっちを伺う気配も退いたとのこと。同じ輩が戻るにしても、手傷の癒しに数日はかかりましょうから、
「その間にこうして根城を移してしまやいいだけのこと。」
何を見たかは知らないが、この地の治安関係筋が動く気配も察せられぬからには、奉行所関係のイヌとも思えぬ。大方、仲間内で賭けでもした輩が、入った証拠に母屋の錠前でももぎ取って来いと言われたか、
「まさか此処で、秘密裏に偽金を鋳造してしただなんてことは……。」
「そうさな、
手証(てあか)に現物でもガメなきゃあ、
役人級のお歴々を動かすのは難しいってもんだよなぁ。」
男らの怪しいひそひそ話の後を接ぎ、覚えのないお声が割り込んだものだから。ここまで密談中だった、素浪人だか遊び人だか風体の砕けた男らと、頬の垂れた壮年のお武家とが、ハッとしたそのままそれぞれに辺りを慌てて見回した。無理強いか、それとも賃金はもらってのことか、黙々と列をなしての木箱を外へと運び出している面々の様子に変わりは無し。それを捌いていた手の者の若いのが、こちらの様子へこそギョッとしたものか、どうされたかという物問いたげな視線を、数間ほど離れた向こうから送って来たほどで。
「な…。」
「今のは一体…。」
篝火を煌々と焚いていたワケじゃあないが、それでもそれなり警戒のためにと、高脚の燭台を庭のあちこちに立てていたし、何よりいい月も出ていての見通しはいい。足元の乾いた土へ落ちる陰も色濃く、さわと吹いた風にくすぐられ、スズカケの梢が揺れた様さえありあり映し、そんな気配が彼らを意味なく飛び上がらせたほどであり。そんなしょむないことへ身をすくませたそのすぐ後へ、
「偽金作りの工房なのに“置いてけ”はよかったな、お武家様。」
先程の声が、今度ははっきりと彼らへ届いた。それと一緒に瓦同士の触れ合う、高めの乾いた音もして。それでと見上げた先、母屋の濡れ縁の庇の上に、
「な、何奴っ!」
頭上から降りすすぐ月光を背に負うた、誰か雄々しい体躯をしたのが危なげなく立っているのが、やっとのこと彼らにも見つけられた次第。上から見ていた彼からは、さぞかし可笑しい“的外れな物探し”に見えたに違いなく、
「人払いのための“置いてけ”の話。
最初に訊いた丁稚さんが髪結い床屋で笑われかかったその場には、
そっちの兄んちゃんが居合わせたんだってな。」
しゃらりという金音とともに、ずいと差し伸べられた棒のようなものが指したは、遊び人風の男のほうで。あんな小さな坊主が何を言い触らすかを案じて、それでの口裏合わせまでしてやって。そこまではなかなか行き届いていたが、と続けたそれから、
「この近所の住人たちだけ怖がってくれりゃあ良かったもんが、
あっという間に隣町へまで広まって。
何だなんだ面白そうな話じゃないかと、
見物が来かねない風潮になっちまったは誤算だったよな。」
ぎしり、足音の古瓦を軋ませての屋根庇を踏み切って、一気にひょいと飛び降りていた影こそは、
「あっ、貴様はっ!」
「あん時のっ!」
ザッと数歩ほど後じさり、腰を落として腰の差料の柄に手をやる素浪人や、懐ろへと手を入れて匕首を引っ張り出した遊び人には重々と見覚えがあるらしきその人物こそ、
「ほんの2日ほどしか間は空いてねぇのに、もう逃げ出す算段とはな。
次の空家役宅が見つかったか、だったら結構な段取りじゃねぇか。
しかも水路は避けての徒歩(かち)でとは、今度は頭ぁ使ったねぇ。」
顎にくくった荒縄ほどき、目深にかぶったまんじゅう笠をほいと外したそのまま、放るようにかなぐり捨てた、雲水姿の怪しい僧侶。短く刈られた髪をした、剃髪してはない頭から察するに、僧籍も怪しい筋の流浪のぼろんじか。その程度しか目串の立たぬトウエモンとかいう垂れ頬のお武家と違い、
「大怪我して逃げ出した筈じゃあ…っ。」
「何で、そんなピンシャンしてやがるっ!」
そんなお武家様を一応は守るようにと、手前へ立ちはだかったまでは良いとして、信じられないものを見るかのように、あわわと慌てふためいている様子が何とも滑稽だったので、
「おいおい、そこまで大仰になるような容体だと思ってたんか?」
人を化けもんか死びとが蘇ったような見かたしてんじゃねぇよと。精悍なお顔の口許をどこか悪ぶっての歪ませ、それで笑う形になるようニヤリと引き上げて見せたは。確かに、彼らが語っていた数日前の侵入者に違いなく。夜陰に紛れ、広い庭を横切って母屋へ張り付くと、彼らの密やかな作業の様子へ耳をそばだてていた不法侵入人物。敢えて、地下や奥まった部屋での作業をとせず、そういった不審者に気づきやすいよう構えたことが功を奏し、素早く気づいた見張りの面々が白刃振りかざして追い回し、拿捕こそ逃したが、その顔にしたたった鮮血の多さから、これはさして刻も費やすことなく昇天しようぞと…勝手に決めてかかっていたらしく。
「つまんねぇ級の相手を脅しすかすくらいしか、
修羅場の蓄積がない連中は、
これだから度し難いってんだよな。」
さっきこの藩の人間がよほどのこと平和だなぞと言っていたが、そっちこそ大した場数も踏んでないくせに偉そうにと言わんばかり。それが彼の得物か、手にしていた錫杖をぐいと掴むと、先端に下がった輪環をしゃりんと鳴らし。足腰軽く沈めつつ、足元の土くれ、ざりと鳴らして踏み締めての堅固に身構えた、雲水姿の謎の男は、
「頭や顔なんてところは急所が集まってる場所だけに、
血の巡りも細けぇんだよ。」
頭部は特に、ちょんと突いただけでも凄まじい出血に及ぶため、周囲も当人もあたふたしがちだが、どうか慌てずに落ち着いて対処して。確かに大事な部位だから、だからこそ血管も神経も細やかに張り巡らされているのであって。
「…じゃあっ。」
「あの晩、頭抱えて逃げやがったのはっ。」
タヌキ芝居だったのかと続けかかった、どうやら ごろつきの側の幹部格らしき二人の言いようへ。ちっちっちっと立てた指先振って見せ、
「人聞きの悪…いっ。」
いなすような、のんびりした会話に見せかけて、だが、背後に迫っていた気配にはしっかり気づいていた雲水殿。そのまんま振り向きがてら、そんな自分の身の旋回に添わせ、軽々と錫杖を回し、最後にぶんっと斜め下へ向けての ひとしごき。すると、その切っ先に居合わせた別なごろつきが、脾腹を横薙ぎに払い飛ばされ、
「ぐあぁっっ!」
悲鳴を上げつつ、手にしていた匕首を取りこぼしてのその場に頽れ落ちている様が、あまりに鮮やかだったのへ、
「なんて奴…。」
よほどのこと本当の練達には縁のなかった御仁なのか、垂れ頬の武家がくぅうと喉奥を鳴らして言葉に詰まり。そんな彼の盾になってた二人の手下が、表情を険しく尖らせ、周囲に散っていた仲間らへ、がなり声を上げ、注意を向けさせる。
「てめぇら、なに見逃してやがるっ!」
「そそそ、そうだぞっ、こいつを畳んじまえっ!」
ばさばさズルズルとした布切れを、適当に巻きつけたようないで立ちで、しかも手には輪環がしゃりしゃら音を立ててもいて。上背だってあり過ぎる、こうまでの偉丈夫が母屋のしかも屋根の上なんてところに登っていたこと。どうして誰も気がつかなんだと、ある意味、立派な八つ当たりから、手下たちへとどやしつけつつ、
「トウエモン殿は、荷物と共に新屋敷のほうへ。」
「お、おおお、おうさ。」
年齢や衣紋の格の違う彼こそが、やはり首謀者なのだろう。他の者らから庇われる格好のまま、正体不明の雲水から遠ざかる方向へ、一人逃げ出そうと構えたものの、
「………ゴムゴムの、」
おおう、この声は…と。この場に居合わせたほとんどの人々が、同じような想定や見解を抱いたそんなの中。唯一、ふにゃりと…それまでは男臭かったお顔へ、苦笑を浮かべてしまったのが、威勢の良い啖呵を切っておいでだった坊様だ。
「ありゃまあ。療養所経由であれ、俺もここ関わりだって良く気づいたなぁ。」
その先を聞かずとも、言い回しより声だけで、この場へ誰がやって来たかがすぐにも判ったお坊様。あんまり明るくはないから、せいぜい ややこしいところへ当たるなよとだけ案じておれば、
「ロぉケットぉおぉぉ………っ!!」
夜陰を突っ切り、ばびゅんと飛び込んで来た小さめな人影が約一名。荷役の男らには目もくれず、坊様を取り囲まんとしていた手合いにも、実はあんまり注意は払わぬ突撃は、それでも…目標が同じだったからだろか、その軌道上にいた何人かの与太者らを薙ぎ倒し吹き飛ばししてから、
「こんにゃろめ、やっと捕まえたぞ、ゾロっ。」
「親分、取っ捕まえるのは、俺よりこいつらじゃね?」
どーんっと途轍もない加速つきで飛びついて来た“人間砲弾”を、こちらさんも余裕でその懐ろにて受け止めつつ、一応の助言をのたまえば。とんでもない方法と距離から飛びついて来た麦ワラの親分、にかりと笑って、
「心配すんねぇ。ゲンゾウの旦那以下、捕り方も山ほど連れて来てっぞ?」
何たって、置いてけの噂の真んまん中の屋敷だもんな。何が飛び出すか判んねぇってことで連れを募ってたら、ウソップが何をどう知らせたか、空き家とはいえ藩同士という高い次元で縁のある役宅が何物かに荒らされては一大事ってんで、
「この大所帯で来ちまった♪」
わははと楽しそうに笑った彼だが、
「偽金鋳造の一味、観念しなっ!」
本来の主人関わりの人がおるはずはないのだからと、
コブラ様からのお墨付きもいただいておるっ!」
与力の旦那とこちらの親分さんの思惑は、あんまり重なってはなかったんじゃあなかろうかと。こっそり感じたお坊様だったらしいのでありました。
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*あ、しまった、背景に借りた写真、三日月だった。(笑)
今朝がそうだったそうな、月食の途中だったってことで。(こらこら)
ちょこっと間が空きましたね、すいません。
相変わらずのドタバタな展開です、結局は。
だってのが悪いのかなぁ、彼らの場合は。(苦笑)

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